Thursday, March 15, 2007

愛(あい)は、文脈により様々な意味で用いられる概念である。



定義

日常用語的には感情の一種で、何かの対象を肯定する気持ち、対象に存在意義や価値を見出したり快を感じたりする気持ちであると理解されている。
類似の感情である(としばしば考えられる)好意よりも、深い、強い、崇高であるとされる事が多いが、これもまた例外が多くあり、定義は容易ではない。又、恋ともしばしば比較される。恋が一方的な思慕の情を指すのに対して愛は常に相手の立場を慮る心遣いだというのが通説だ。 愛や愛に基づいた行為が理想とされる事はあるが、時にはある個人または集団の不利益の根源ともなる。そのため愛自体に対する価値判断も定まっていない。
一般に、愛は非常に多義的で複雑な概念であり、普遍的な定義が出来ない、そのような試みは不毛である、とさえ言われてきた。しかし「愛とは何か」という問いを抱く人は多い。それを扱った芸術作品は数え切れないほど制作されている。愛それ自体は明確に表現出来ないものであるが、古来から人の心を引きつけてやまない存在でもある。


日本語の愛の語源

元々日本語の文脈における愛は、仏教用語からきたものであり、愛別離苦の一を占める煩悩(執着)の意味であった。平安文学では「愛(かな)し」と読ませ、いとおしみ離れ難い心境をあらわす。

近代に入り、西洋から新しい意味が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシャ的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、混乱の中から、現在の複雑な愛の意味が作られてきた。



愛の対象

人間が抱く「愛」の感情は、必ずしも対象を限定せず、その範囲は広大である。ただし、日常においては愛がどのような対象に対して発生するかについては、かなり具体的な解釈があるともいえる。ただし、これらの解釈も、倫理的、宗教的に制限される事がある。

「愛」の対象としては、家族・親族・夫婦・恋人・親友・恩師・自身の庇護者など親密な相互人間関係にある者において、あるいは、自身が所属する分野や組織(人類・国家・宗教・家系・企業など就労する組織など)に対して、または人間関係や所属関係にとらわれず、自身の価値観に基づく一方的な尊敬や評価ないし愛着に値する人物に対する感情、あるいは人間以外の生物に対する愛着の感情、場合によっては生物以外の無機物、果ては人間をはじめとする諸生物が行う行為(非物体である「行為の方法やふるまい」)、あるいは自然現象から宇宙の摂理に至るまで、愛着のあるあらゆる事象に対して普遍的に生まれる感情の対象でであるとされる。ただ普通は、上記の普遍的な「愛」の概念一般を包括して指す抽象的一般表現、または、特定の主体者が「愛」として抱く対象として起こる感情を限定して表現する用語として用いられることが多い。

現代では、婚姻や性行為は、しばしばお互いに対する愛の存在を理由として行われ、又、愛がない場合には行われないべきだとする考えもある。
「~を愛する」という動詞の表現は、趣味などの物に対しても用いられる。
日本では、郷土や祖国、出身校などに対する愛がありうる事も比較的広く受け入れられており、それぞれ「郷土愛」「祖国愛」「愛校精神」などと呼ばれている。


自己愛

社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。 (英語 narcissism の訳語として用いられる事もある。また self-love という言葉も存在する。)
生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で(成人するまでに)自身が無条件に受け入れられていると実感する事が、自己愛の形成に大きく関与している。「自分が望まれている」事を前提に生活出来る事は、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。又、自己に対する信頼が安定する事、自分という身近な存在を愛せる事は、その経験から他者を尊重する事にも繋がる。


しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれる事がある。この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなど可能性もある。もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。
自己愛という語は「他人の視点を理解しない一方で自己を肯定する感情」を批判する意味合いで用いられる事もある。その意味で自己愛が過剰な人は、自己の欲求(金銭や社会的地位など)を優先して、時に他者に害を為す事もある。

周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評される事がある。これは、対象を愛して(気分が舞い上がりなどして)いる自己に酔っている、又、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。
自己愛にはいくらかの傾向が見出されるが、いずれも全く個別的なものではなく重なり合っていると言えるだろう。


家族愛

親子、兄弟姉妹、祖父母と孫など肉親同士で発生する。他人同士でも非常に近しい間柄でそのようにみなされる状態がみられる。
家族愛の普遍的な例として、お互いを溺愛しすぎず、両親の尊敬と思い入れが子供にある(親孝行)あるいは親が子供を愛玩的に愛するのではなく、子の人生を社会的にも精神的にも温かく見守るように育てる事、兄または姉に対して弟あるいは妹が嫉妬、あるいはライバル心を抱きながらも仲間や同志的な感情と似た感情を抱いたり、兄や姉が妹、弟を精神的にも社会的にも微笑ましく見守るような場合等を「家族愛」と表現する場合が多い。


コンプレックス症例 

家族愛を表す用語としてコンプレックス(抑圧された複合意識)という用語が使われる事がある。ただ、こういった用語はその前提となる考えがそれぞれ違うため、単純にイコールには出来ない。例えば、エディプスコンプレックスは父親に対する対抗心として母親への愛があり、マザーコンプレックスは単純な母親への感情を意味する。そのため、細かく見ればそれぞれ意味は異なる。

前述のように子供から母親に対する度を過ぎた愛はマザーコンプレックスあるいはエディプスコンプレックスと呼ばれる。又、ジークムント・フロイトは女の子が初め母親に愛情を向けることを指摘し、またカール・グスタフ・ユングは純粋な母親への愛は女性に良く見られると指摘した。一方、母親から子への愛を表す用語は阿闍世コンプレックスと言われる。この用語は母親の無限の愛を前提にする。息子の場合はアグリッピーナコンプレックスと呼ばれることもある。この用語の場合母親の歪んだ息子に対する愛を前提にする。

一方、子供から父親への度を過ぎた愛情はファザーコンプレックスという。女性の場合エレクトラコンプレックスという。この場合は母親への愛の次の段階としての女性の父親に対する愛を意味する。男性の場合オレステスコンプレックスというが、これは母親への愛との重なり合いで苦しめられているという意味合いを含む。父親の息子への度を過ぎた愛はアブラハムコンプレックスという。この場合は息子離れが出来ず、親離れをしようとする息子を憎む意味合いを含む。父親の娘への愛は白雪姫コンプレックスと言われる。これは、母親の嫉妬が背後にある。

兄弟愛、姉妹愛という言葉があるが、これもまた度が過ぎた場合、「シスコン(シスターコンプレックスの略)」「ブラコン(ブラザーコンプレックスの略)」と呼ばれる。親の愛をめぐる心理葛藤として「カインコンプレックス」と呼ばれる場合もある。


愛の特徴

愛は恋や好意に比べ、深く、強く、崇高であるとされる事が多い。
親が子に抱く愛や人が恋人に抱く愛は、相手に対する無条件の肯定であるとする考え方もある。このような感情は、他の感情に比べ、強く、しばしば信念などと同じく人生の重大な選択を大きく左右する感情ともなる。又、古来、物語やドラマにおいては、愛やそれに類する感情が、人々の強い願いや欲望としてドラマを作り出す重要な要素になっている例が珍しくない。
但し、「あばたもえくぼ」(「人を愛すると欠点にも好感が持てる」の意)と諺にあるように、愛は事実を誤認させるものであるとする認識もあり、これを論拠に「愛は必ずしも崇高ではない」とする主張もある。また、溺愛や偏愛なども、崇高ではない場合があるとも考えられている。

数多くの形やレベルがあるので、定義は難しい。ほとんど宗教的な話になってしまうし、宗教的なテーマでもある。愛は言葉によって定義するのがほぼ不可能であるし、言葉によって伝達する事は非常に難しいと思われる。愛は愛する・愛される事を強く実感する事で出来る可能性がある。

恋とLove

男女間・(同性愛者における)同性間の愛は、日本語においては恋という特別な言葉でも表現出来る。愛とほぼ同じ意味で使われる事も多い。しかし、恋は必ずしも人間に対してのみ持つ感情ではない。植物、土地、歴史等を恋しく思う場合にも用いられる。
恋と愛の両方を英語ではLoveと表現する。英語におけるLoveと日本語における恋と愛はイコールではない。これは両言語を用いる各種族の歴史観、宗教観、思想の相違による。日本語において「ラブ」「Love」は若者の言語や芸術では恋、愛両方を表す言葉として頻繁に用いられている。

男女間、あるいは同性間の恋については、様々な要因が引き金となって始まると思われる。要因の1つに、10代における身体の性的な成熟がある。この感情が芽生えるまでの少年少女の時期、彼ら彼女らにとって社会や人間関係は未知の世界であると言われている。この感情が芽生えると、寝ても覚めても相手の事で頭がいっぱいになったり、相手との人間関係を普通とは違う特別なものだと感じるようになったりする。人間以外の動物間にもこの感情が芽生えるかどうかについては不明。恋が起こるのには人によってそれぞれの「きっかけ」があり、そのきっかけは人の人生においてとても大事なものになる場合がある。恋愛は結果に関わらず人間性を成長させる要素となる。


宗教と愛

「神は愛である」という言葉があり、又、さらに、「愛は神である」という言葉もある。愛を知る事で、神を知る事が出来たり、宇宙の神秘を知る事になるとも言われる。
これらは、宗教性の意味あいをもった愛であるが、愛は数多くの形に使われる。「自分の愛している車」と言った場合、これは「非常に大好きで大事な」の意味であって、宗教における愛のみが「愛」と考える者にとっては誤用である。
そこで、たびたび宗教性の意味合いを持った愛を「無条件の愛」と呼ぶ。実際には愛は無条件なのであるが、「無条件ではない大好き」「対象と条件のある愛に似たもの」を「愛」と呼ぶ事が多いので、このようになっている。
愛は宗教的な探求テーマの一つであるが、愛を探求テーマに持たない場合もある。それは瞑想の道とも呼ばれ、愛の道と対比され、探求には愛の実践は含まれないか中心的な重要さはもっていない。しかし、道に到達した時には愛が起きる。例えば、禅の探求には愛は含まれない。しかし、悟りを開いた人々は愛に満ちている事は知られている通りである。


仏教での愛

仏教での「愛」には、サンスクリット語でtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種が挙げられる。
tRSNaa
人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時には、水を飲まないではいられないような衝動をいう。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。
広義には煩悩を意味し、教義には貪欲と同じ意味である。
又、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
kaama
kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現する事が多い。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
preman, sneha
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全てのの人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
一切衆生に対する愛情の純粋化・理想化されたものを慈悲という。それは仏に成就しているが、一般の人々にも多かれ少なかれ実践できる。




慈悲

愛が更に進化した場合を、慈悲と呼んで区別する場合もある。この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取る事が出来るとも言われる。
観音菩薩や聖母マリアは、このような状態の象徴であり、そのような状態を感じる事が出来るように表現されている。


キリスト教での愛


キリスト教では4種類の愛がある。
エロス έρως
肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める、自分本位の愛。見返りを求める愛。
ストルゲー στοργή
従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。
フィーリア φιλία
友情愛。自分を与える事で他人を生かす愛。
アガペー αγάπη
無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。キリスト教でいう一般的な「愛」。
キリスト教の愛は、隣人愛によって成立する人類という大きな家族像を示唆している。その隣人愛は、報酬を求めないどころか、自己を犠牲にすることによって完成することをイエスは十字架上の死によって示した。これは、全人類を創り育て救う、求めることのない神の愛を映(うつ)している。人類は神の子として、同胞であるという点から、自然や組織による差別を超越して同胞愛を地上に実現しようとしている、とされる。
キリスト教の神は、聖書の「放蕩息子」のように限りなく寛大な親であり、聖母は全ての人の母として尊敬されるべき慈愛あふれる庇護者であり、全ての人は「サマリア人」のように兄弟愛で支え合い、譲り合い許し合い和解すべきとされる。
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ5:44)と。ここに敵をもそれが人間であるがゆえに隣人と見なすべき人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。


儒教での愛

仁は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、孔子は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。
一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」といい、恋情や色欲の不安が愛に宿されていることをも看破していた。



人名としての「愛」

日本では主に女性の名で「愛」という字が使われる。有名人の例では、シンガーソングライターの大塚愛、テレビ朝日系ドラマ「はみだし刑事情熱系」でおなじみ、女優の前田愛などがいる。「愛」という名前はそのまま「あい」と読む場合も多々あるが、「愛子(あいこ)」「愛美(まなみ)」など別の字とも組み合わされる。名づける動機として、「愛」が表す慈しむ心やかわいらしさを持つ子になってほしいという親の願いが挙げられるだろう。

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